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こじらせ小説「桜色に染まる頃」 203 days ago
井の頭線、下北沢から渋谷行きに乗ったある日。
急行で一駅と思い、乗り込んだ正面のドア付近に立った。
ドアにもたれかかった女性の背後を流れる街を、ただぼんやり眺めていた。東京は三寒四温。そろそろ冬用のコートをクリーニングに出さなくては、そんなことを考えていると電車が大きく揺れてとっさにつり革を掴んだ。前にもたれかかっている女性にぶつからずに済んでホッとして、ぶつかりませんでしたよねと言わんばかりに、彼女へと無意識に視線がいった。そのとき、見てしまった。
彼女の頬を伝う、ひとすじの涙を。まるで世間からのすべてを遮断するような、まるで自分へのすべての侵入を防ぐような大きなサングラス。そのサングラスの下からこぼれ落ちたもの。
その涙だけが重力でゆっくりと動いていて、彼女は微動だにしない。
何があったんだろう。電車に乗っているけれど、彼女の中では周りには誰もいなくて一人で泣いている、そんな感じだ。嬉し涙でないのは、気配でわかる。見てはいけないものを見てしまった気がして、彼女越しの風景に焦点を戻したが、見ようとしているのは風景ではなく、彼女の心の中だ。何があったんだろう、そればかり。
すると駒場東大の付近で彼女の背景が一瞬ピンク色に染まった。あっ桜!と誰かの声とともに車両内は、高揚感に包まれた。それを感じた瞬間、彼女に目をやった。何があったか分からないけれど、電車の中で一人涙を流したこの子にも、この桜を見て欲しい。見て!満開の桜が咲いてるよ!心の声で叫んだ。



サングラスをかけたまま渋谷の街に消えていったあの子は、あのとき桜を見てくれただろうか。
どこかの桜に気づいてくれたらいいな。どこかで誰かと笑顔でいてくれたらいいな。

井の頭線に乗るたび思い出す、遠い春の出来事。


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