TOP INFO PROFILE PHOTO DIARY LINK

  

こじらせ小説「花の名は。」 111 days ago
5月。爽やかな風が今日も心地よい。
散歩がてら駅まで歩こうと張り切っていた彼女だったが、いつものごとく準備に手間取り、結局タクシーを捕まえるつもりだなと、ヒールの高い靴を選んだ時点で悟った。何度となく繰り返される、出かける前のバタバタにもすっかり慣れてしまい、今では呼吸するのと同じレベルで、イライラすることもなくなった。
通りに出てすぐにタクシーはやってきた。駅まで歩けば20分はかかるこの辺りは、住宅街のわりにタクシーがよく通る。乗り込むと彼女は即座に化粧を再開し始めた。仕上げは車内でする計画だったらしい。やはり。
発車してしばらく外を眺めていると新緑が気持ち良さそうにそよいでいて、それを肌で感じたくなった僕は迷わず窓を開けた。その時「あのー、ここにずっと並んで咲いてるのは何ですかね?白い花で。これをハナミズキっていうのかなぁ」と運転手さんが話しかけてきた。
見ると、それはハナミズキとよく間違えられるヤマボウシだった。「これはヤマボウシじゃないですかね。似てますけど。上から見た方が花が咲いているのが綺麗に見えるんですよ」と、うんちくを交えて答えると「お客さん、若いのによく知ってるねぇ。そうかぁヤマボウシ。似てるなぁ」と嬉しそう。そして何かを思い出したように「お客さん、わたし驚いたことがあってね。この花よく見るけどなんていう花なんだ?って友人に聞かれまして、それ見るとね、バラだったんだよ!こいつ60にもなってバラの花も知らねぇのかって、びっくりしちゃったよ。そうか、これがバラってのか!ってね」と笑っている。
適当にそうですか、と笑って流そうとしたとき「かわいそう」と隣で忙しくしていたはずの彼女がつぶやいた。笑い話のつもりだった運転手さんも、あっけにとられて車内は一瞬沈黙となった。そして真剣に「だってその彼に花の名前を教えてくれる人が、それまで誰もいなかったってことじゃない?」と言い放った。
「あー。そうかもなぁ。働いて金が入ったらギャンブルやって、酒飲んでって好き勝手やってたやつだったなぁ」と、バラの花を知らない彼を、今度は労わるように言った。そして車内の3人は、駅までの数分をその彼の人生とか孤独とかに勝手ながらも寄り添って過ごしたのだった。

花の名前や木の名前を教えてくれるのは、親兄弟だったり恋人だったり…思えばとても身近な人から教わることが多い。そこには愛とか優しさも一緒に与えられていたのだと気付かされた。


  •